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書くのこと

Feb 26

2012

文字書きしている人というのは、ぼくのまわりにもけっこういまして、

その方たちとよく書くことについての話になります。

書くということは、おしなべて孤独なものです。
これはだれと話しても同じで、みな書くことはさびしいし面倒だと言います。

書くということは、読む以上に時間がかかります。
読むということは、しゃべること以上に時間がかかります。
時間がかかることに、人はなかなか手が伸びないものです。

ですが意外にも、ものを書くひとというのは、面倒くさがりだったり、短気だという人が多いきもします。
理由はわかりませんが、きっかけは、「どうしてもこうするほかないという必要にせまられて」というのがあるようです。もしかするど、ぐだぐだいうまえにやってしまおう、という短気なのかもしれません。


残念ながら当然のことですが、書くということは一人でしかできないものです。
リレー方式でかくハリウッド映画や週ごとのアニメというものもありますが、
どうしたって、書いている最中というのは、まったくたった一人での悶々としたレースになるのです。

ですから書いている人同士、たぶん同じような質問をしあうんですね。
「どういうふうにして書いていますか?」
これはもう、家庭での性生活のように表には現れないものなので。

ぼくが芝居の台本をかくときは、
ひと月とかふた月とかじっくり頭の中でイメージや作戦を立て、断片を残していって、
いざ書くとなると、一週間くらいで初稿を書き上げます。
初稿は、A4のPPC用紙に書きなぐってあるので、その後改訂しながらパソコンに打ち込んでいきます。

書いているときは集中しているので、何時間でも椅子に座っていられます。
もちろん、先が思いつかず手が止まって、もどかしいときはありますが、すこし時間がたてば、また書き続けられたりします。
色んな本を参考にしたり、資料とにらめっこしながら。というと聞こえはいいですが、書いているときには、一番最近に読んだ本の影響が顕著にでてくるし、参考や資料にする本の数もそんなに多くはありません。恥ずかしながら。

でもこれは僕の、書くときの戒めのようなものですが、
「自分の描きたい世界というのもあるかもしれないが、それは先人の知恵のコラージュでもいいのでは?」というのがあります。
だから形式としてはパズルのように嵌めこんでいったり、つなぎの部分をどうするかを考えて行ったりすれば、おのずと形は出来上がっていきます。
まあ、これはあくまでもぼく個人のやり方ですので。

ひとによっては、毎日すこしずつコツコツ書くという人もいるようですし、
不平不満を芬芬とさせながら、気がついたらできている人もいるようですし……まちまち。

なにか書くにあたっていい方法はないかと思って「どうやってますか?」と聞くのに、
みな同じように孤独な戦いをするしかないよという言葉が帰ってきて、ため息つきながら、やっぱりそうかと、ぐっとこらえてきょうも机に向かうのです。

でも、書くことによってストレス発散にもなるのです。
書くということが、自分の日常生活に深く食い込んでいるのです。
書かない日がつづくと、言葉が溜まって腐っていくような気分になるので、適度にガス抜きをしなくてはなりません。
そこで、手慰みに、こうしてここに書いてみたり、俳句や短歌や小説やなどなどに軽々しく手を染めているしだい。

ところで、俳句や短歌というと形式が面倒におもわれるかもしれませんが、
白紙を前にしたときに、形式や縛りといったものがどれだけ心強いことか。
ある程度の枷は、十分に利用し、活用できるものだと思われます。
台本を書くときも同じことで、目的や縛りを決めると、うまくいけたりします。
むかしは、なんの準備もせずに書きすすめることもありましたが、それはぼくにとっては愚挙のようで、
なにかしらものを作ろうかとおもったら、下準備はいるようなのです。

さて、きょうあった書く人は、またひとつなにかをぶち破った人みたいで、
「最近は、ほんとうに言葉に対して、いままで以上に厚い思いをもてるようになった。」
と、それはまるでようやく言葉と正対できてきたとでもいうように、より真摯に、より熱をもって、向かえるようになったと喜んでいた。

「展示するにあたって、言葉を削っていったの。」
「声に出す言葉と、展示する言葉は、また違うものだね。読むとまた違う。」
などなど、なんだかいい刺激をたくさん受けることができた。

ぼくも言葉に対してはいつまでもひたむきにと思ってはいるのだが、
がさつなところがあるようです。
なにより、字が汚いというのが、文字に対してすでに失敬かもしれない。

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