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木のこと

Mar 8

2012

魔法とは観察→認識→投射の順におこなっていく自己の改革である。
と前の記事で書きましたが、
その「認識」を深めるうえで、重要な手助けとなってくれるものが、
「生命の木」というものであるそうです。

『魔法修行』は入門書のようなものなので、「生命の木」についてはさわりの部分しか書かれていませんでしたが、それでも十分に興味を覚えるものでした。

有名なものでいえば、エヴァンゲリオンのオープニングなんかにも一瞬ちらりとその図像が出てきて、異様なイメージを与えますが、
W・E・バトラーにいわせれば、
この木の機構は検索システムとして利用するのに非常に役に立つ、のだそうです。

外面的にも内面的にも、人生におけるあらゆる具体的な事柄は、すべてこの生命に木によって位置づけられるので、
あらゆる事象をすべてこの木のシステムに位置付けることを意識しておけば、
さらなる自己理解、自己認識を獲得できるのだとか。

てっきり、この図そのものにエネルギーがあるのかと思っていたのですが、
あくまでこれは構造を現してある地図のようなもののようであります。

魔法に関わるもののあいだでこの「生命の木」は、
『宇宙と人間の魂に関する、強力な、一切をつつみこむ図像』といわれているようです。


「生命の木」は、10個の球(円)からなっています。
このひとつひとつを「セフィラ」といい、複数形で「セフィロト」といいます。
そのセフィロトをつなぐ22本の線があり、
それによって32の径(道)ができます。



(ダートはセフィロトに数えません。)
各部位にはもちろん意味があり、それぞれがもつ色彩や、対応する身体の各部位などもあります。たとえばケテルが頭蓋骨で、マルクトが足などなど。
また各部の神名や大天使などというのも書いてありますが、それらはすっとばして、
ここで重要なことは、
コクマーとビナー、ケセドとゲプラ―、ネツァクとホドは対になっていて、
お互いに両端であります。
ですからそれらに偏り過ぎることは好ましくなく、中庸をとるのが一番だということです。

また、縦の並び、
「ビナー」「ゲプラー」「ホド」を「形」の柱
「ケテル」「ティファレト」「イエソド」「マルクト」を「中央」の柱
「コクマー」「ケセド」「ネツァク」を「力」の柱
といいます。


さらにこの木をよっつの世界に分けていきます。
それは
アツィルト → 原型の世界(ケテル・ビナー・コクマーに挟まれた部分)
ブリアー  → 創造の世界(ビナー・コクマー・ゲプラー・ケセド・ティファレトに挟まれた部分)
イエツィラー→ 形成の世界(ゲプラー・ケセド・ホド・ネツァク・イエソドに挟まれた部分)
アシャ―  → 物質の世界(ホド・ネツァク・マルクトに挟まれた部分)
となります。



と、ここまでくれば準備完了です。

実際にこちらを遠心分離器として活用してみましょう。

『魔法修行』の翻訳者、大沼忠弘氏は、巻末の解説で
ためしに「自動車」を例にあげてふるいにかけています。

「たとえば自動車は
マルクト(物質)からなる機械体系であることは、いうまでもない。
しかし、これを動かすにはエネルギーがいる。これがイエソドとしてのガソリンだ。
ホドには自動車を購入したり、製作したりするときに必要な資金または経済活動を、
ネツァクには製造、販売、修理など自動車産業一般を成り立たせている技術活動を当てはめることができる。
この四つのセフィロトが「アシャ―(物質の世界)」を構成する。

しかし世界はさらに上の世界から規定され、支配されている。
それは顧客の自動車に対する欲望、需要であり、これが自動車問題を考える中心、ティファレトになる。
顧客は自動車に二つの理念を求める。
一つは速度、燃費、耐久性などの物質的または経済的性能。これをゲプラーとする。
もう一つは、美しさや象徴性などの心理的要素である。これをケセドにあてる。
するとさまざまな「力」が、機械体系としての自動車を「形成」している真の原因であることが理解できよう。
この領域を「イエツィラー(形成の世界)」と名付けるのである。

われわれの意識活動は、普通このイエツィラーの世界で終わっている。
その上に君臨する「ブリアー(創造)」の世界にはほとんど目が届かない。
そこは潜在意識とか無意識とよばれているところだが、あらゆる創造力はここを母胎としているのである。
自動車を所有すること、また乗ることでわれわれの潜在意識はなにか。

ひとつは自動車のビナー(形)がもっている象徴機能である。車輪、ハンドルの輪といった回転する円(チャクラ)のイメージ、「四」の安定性、閉ざされた密室構造などが一種の神話的象徴性をもって、われわれの無意識に働きかけているのである。
それらの象徴物は、自動車を聖別して、ある種のご神体または神殿に仕立てている。

一方、自動車のコクマー(力)、つまり運動のもっている象徴機能はなんだろうか。
人間業を超えた速度と耐久力、地を這う蛇のごとき自由な疾走、古代の帝王さながら大地に足をつけず、輿に乗って雲上をいくような快感……。

人間が自動車を創造したとき、このような魔法的動機が深層心理に介在していたのではないだろうか。
これが「ブリアー(創造の世界)」である。

自動車の「力」も「形」もこの最高存在「ケテル」つまり「神」に近づくために存在する。
自動車を法具として、現代人は意識せざる魔法、つまり究極的には人間神化または促進成仏を試みているのである。この点、子供がおもちゃによって魔法を行うのと基本的には少しも変わっていない。
これが「アツィルト(原型の世界)」である。



多少突飛な感はありますが、この分類によって、ここまで話を順序立てて膨らますことができるというのが、この生命の木の驚嘆すべきところではないでしょうか。
つまり視覚的にかくと



            神
     ⇅             ⇅
  神具・神殿の象徴     強大な力を駆使する快感
     ⇅             ⇅
  物質的経済的性能     形態美などの心理的要因
     ⇅             ⇅
          需要・欲望
     ⇅             ⇅
   経済活動          技術活動
     ⇅             ⇅
          エネルギー
     ⇅      ⇅      ⇅
         機械体系・物質


よくできてきる。
むしろなんにでも当てはまるのではないかとさえ思ってしまう。
それでもいいのだろう。まずはこの生命の木の分類に触れるというのが目的なのだから。

ということで、自分でもやってみました。
最近読み終わった、三島由紀夫の「金閣寺」より。
主人公の吃の坊主は、奉公先の金閣寺を燃やしてやろうと企てます。
そこから、『放火』というキーワードを分類にかけてみました。

まず「放火」からはじめてみまして、放火の基盤といったものとは何か。
それは「焼失」ではなかろうか、と。
では「焼失」のもつふたつの物質的側面とは?
ひとつは形をもち、もう一つは力をもつもの。
それは「消失」と「炎」ではなかろうか。

すると、それによる生産物が、ここでの中心物になるのではないだろうか。
それはおそらく「灰」。

灰が意味する、形態とはそれはつまり「死」であります。
また灰を生み出すための力、それは燃え上がる炎のような「熱」もしくは「情熱」です。

いままでであれば、ぼくの思考もココまでで終わっていたのでしょうが、
世界はさらにその奥まであるというので、こんどはその無意識の部分まで探ってみようかとおもいます。
「死」で思考を止めず、「死」のその先にあるものといえば、それは「無限」ということではないでしょうか。
「死」が人間にとっての打ち止めにならず、死して尚もその先があるとすれば、それはもう無限です。

では「情熱」のその先とはなんでしょう。「情熱」とは止まぬものです。
いずれ消える情熱というものは、それは情熱とはよびません。
情熱とは、いつまでも燃えつづけ、そしてどこまでもひろがっていきます。
それは、拡大とか拡散とかいうよりもおそらく「増殖」といったほうがなんだかしっくりきます。情熱はさらにほかの情熱と結びつきさらなる深みへとはばたいてゆきます。

そして、この「無限」と「増殖」が出合う先、神にも似た行為をおこなうものといえば、
おそらくまた生命の巡りあわせ、ひとめぐり。ぼくにとってそれは「再生」なのではないかと思います。

      再生
  ⇅       ⇅
  無限      増殖
  ⇅       ⇅
  死       情熱
  ⇅       ⇅
      灰
      ⇅
  消失      炎
   ⇅      ⇅
      焼失
      ⇅
      放火


つまり、はしょってしまえば、主人公の青年は「放火」を犯すことによって「再生」へと望みをつないだわけでした。
焼畑のあとに新たな芽が芽吹くように。

たしかに、この青年。金閣を焼くまではこの炎とともに死んでもいいと思っていたのですが、いざ金閣を焼いてみると、最後の最後に彼は
『生きようと私は思った。』と萌芽をにおわせるのです。


奇しくも、『金閣寺』にはこのような一節もあります。
「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。」

これはまったく魔法の精神につうじるものです。
魔法の極意とは、並はずれた認識によって世界を変えてゆくという力のことのようなのです。
そういった意味でいえば、この言葉を発した主人公の友人も、なんだか奇妙に性格のねじ曲がったやつで、美を愛していれば、犯罪なんて恐れるにたらないなんて考えの持ち主なんです。こいつは並はずれは認識で、世の中を凌駕して生きているようでした。

ただ、この友人の忠告にたいして、われらが主人公の青年はこう言い返しました。

「世界を変貌させるのは認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは行為なんだ。」

そういって青年は放火という行為を行いました。
かくして青年はたしかに変貌しました。
だから「認識」と同程度に「行為」もあるものだと理解すべきであるし、
むしろそうした点で魔法とかを当初はバカにしていたところもあるのですが……

さすがに現代を生きる魔法使いのかれらは、そのあたりももちろん理解して組み込んでいます。ただの頭でっかちではないようなのです。

詩や、文字の無力さをわかっていてもそれでも詩や文字に立ち向かうあの詩人も、
「行為」という言葉が大好きでした。
ぼくも「行為」に寄せられて「行為」にばかり目が向いてしまいましたが、
あらためてここで、「認識」とはいったいなんだとうと、好奇心をそそられたというのが、
この現在「魔法」に抱いている興味のすべてのようなのです。

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