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種のこと

Feb 24

2012

「なんだか種をまいているような気分になるの。」

自分より若い世代の人と話をするとき、その人に対して、何をしてあげられるのかと考えてしまうのだそうです。

「あした世界が終わるとしても、ぼくはリンゴの種をまくだろう。」

と、ある詩人はいったそうですが、種をまく行為に置いては、

「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地とよびき」

といった寺山さんの態度のほうがしっくりきます。
終末に向けた悪あがき(生存戦略)よりも、
終末をくぐりぬけて後の、満開の向日葵畑を思い描きたい。

自分は死んでも、なんらかの生命(林檎)が残ればいいとは思いません。
ゴッホもモリディアーニも、生きているうちから作品が売れていればよかったのだ!

だが、果たして荒野の向日葵を思い描けているだろうかというと、
ぼくは生命の種まきのほうに躍起になっているかもしれない。
くやしいことに、ここ一月の記事にはそのような感があることはいなめません。

なあに、これも気にしすぎなのです。
どうしたって、宿主に卵を産みつけるというようなことには成りえないのですから。

たとえ、花が開こうが、果が実ろうが、そうなったのはその人自身のことなのだから。

では、わたしは土なのか、種からなった芽なのか。

種を植えたという方はあなたを「土」とみています。
しかし、花さくその時は、あなた自身は花ととけあい、どこまでも一人称になってゆくでしょう。
それはいいの。花は花として。

種まく人からしてみれば、それはなにか小さなきっかけでもいいので、
そうね、なにか影響を残したいとか、ちょっと影を落としたい、
あなたの影と少しでもいいから交わりたい、
そうした関わり合いの変化を如実に知ることのできるものとして、あなたはそこにいるわけだ。

時間をかけた楽しみを、採集するまでの株のようなシステムなのか?
なんにせよ、同族嫌悪はみっともないので、もっと寛恕をしめしたい。

ぼくにだって、数少ない後輩には先輩風を吹かしてみるという遊び心くらいある。
できればそんな言葉は言ったはじから忘れていきたい。。。

人と話すときには、なるべく平行線か、ちょっと下くらいになるよう気をつけている。

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