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規制のこと

Feb 11

2012

『公開されるべきものはちっとも公開されない。公開されるべきものとは、……つまり死刑なんだ。どうして死刑を公開しないんだ。戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によって保たれていたと思わないかね。死刑の公開が行われなくなったのは、人心を殺伐ならしめると考えられたからだそうだ。ばかげた話さ。空襲中の死体を片付けていた人たちは、みんなやさしい活発な様子をしていた。

人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ日の戯れているのをぼんやりながめているときのような、そうゆう瞬間だと思わないかね。』

三島由紀夫の『金閣寺』にこんな台詞があります。
これをよんでまずおもったのは、電車に飛び込む方は、以前に誰かが飛び込んだのをご覧になったことがあるかどうかということです。
飛び込んだ人を見たことはありませんが、直後の後片付けの現場には遭遇したことがあります。
感想としては、『こんなに血肉を飛び散らかして、恥ずかしい』でした。
縄文の時代から服をみにつけ局部をかくして生きてきた人間が、どうして局部よりもさらに内側の内臓までみせられようものですか。
内臓を見せるのは、フルチンをみせるより恥ずかしいことだと思います。

人の死をみてそうなることが、事前にわかっていれば、そんなことはしなかったのではないでしょうか?
いや、わかりません。その時がもしかしたら、「うららかな春の午後」だったり、「芝生の上で、木漏れ日と戯れる」ような陽気だったとしたら、残虐な気持ちになって飛び込むこともあるかもしれません。

しかし一理はあるとおもいます。
風俗規制を強めた国の性犯罪率が上がるのと同じように、
死に触れることがうすい国では兇悪犯罪が横行します。
連日の痛ましいニュースなどなど。
それを想像力の欠如となげくことは簡単ですが、
ある人の言葉を借りれば、

『原体験が希薄なのだから満足すべき状態を計る尺度がないも同様であって、あれでもないこれでもないと転々とせざるを得ない。』

のである。百聞は一見にしかず。
こんなことになるんなら、人の死にざまくらい、一度見ておけばよかった、
それも死刑なら大義名分もたちましょう。

人の死をみて殺伐な気持ちになるのではなくって、人の死をしって、死を考えるのだ。
それは同級生の不慮の死、不遇の死だって同じこと。
死ぬも殺すも同じこと。とりかえしのつかない狂人なんてそんなにいてたまるか。
可能性に溺れてしまって、なんでもない人間が死を演じたり、殺人を演じたりするだけのこと。それもひとがサラリーマンの役を演じたり、主婦の役を演じたりするのと同じように。

だからそろそろ、中継の映像からも死体が移らないようにしたりだとか、
手術の映像でもモザイクかけたりとか、
なんとかならないでしょうか。なんとかならないでしょうか。

いっそサドの文章を教科書にのせて、全国の子供たちに読ませたらいい。

それから、性器にモザイクかけたりするのもなんとかならないでしょうか。
べつにAVのことだけじゃなくて、海外の映画で裸のシーンって結構多くって、そのシーンにモザイクとか黒丸とか、画面全体の構図とか色合いとかが乱れて、おぉぅ、ってなる。

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