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「?」のこと

Feb 10

2012

ポール・デルボーというベルギーの画家の作品に、「クロード・スパーク『鏡の国』のための連作」というのがあります。
デルボーの友人のクロード・スパークがつくった文章にデルボーが画を描いてある作品群です。
画は載せられませんが、文章もとても刺激的でしたのですこし載せてみます。


 ジュールの妻マリーは朝、朝食の皿を置くと突然死んでしまう。

 死体をベッドに寝かせる。

 ガスパールに剥製を作るように依頼する。

 ガスパールは了解し、とりかかる。

 作業の最中にジュールは王立公園へゆき椅子を二脚かりてくる。

 剥製が完成

 剥製を窓際に座らせて自分の葬儀の列を眺めさせる。

 会社から帰宅するとジュールは誰かが彼を待っていると感じた。

 が歳を重ねて自分は老いてゆき、逆に妻はどんどん若返る。

 苦しみに苛まれてナイフで細切れに殺してしまう。


ふくらませれば、このまま舞台にでもできそうなお話し。
シュールレアリズムの良さもぎゅっとつまっているような気もします。
暴力的な不慮の死、人形、機械技工師、復活と再生、時間の経過と永遠(無限)、二度目の死などなど解体してばいくらでもあげられそう。

ところで、なにをもってシュールレアリズムというのだときかれれば、これは定義がむずかしく、
アンドレ・ブルトンというフランスの文学者だか詩人だかが、1924年に高らかに宣言して明確にしたようですが……どうもわたくしはブルトンさんの分別というものが横暴すぎる気がして、いまいち理解できておりません。

なんにせよ、シュールレアリズムとは、超然的な視点から、日常を再構築して、あらたな幻想を生み出すというような、幻想が日常を凌駕浸食してゆくような感覚とでもいえばいいのかしら。生をいうものに対しての別次元からの挑戦といった趣もあります。

と行き詰ったときには、詩人の言葉を借りればいいかもしれません。
アントナン・アルトーというシュールレアリストに(勝手に)分類されている詩人にいわせれば、生とは、

『そうだ 熱狂と いななきと 腹鳴りと
 空の穴と むず痒症と 赤斑と 循環の停止を
 血の混じった大渦巻きと 血液の刺激に敏感な急突進と 
 体液の交点と 継続と 躊躇である生』

なのだそうです。なんだかよくはわからないのですが、この文字群のなかにほとばしるものを感じます。

何故その言葉?何故?なにがどうなって?
とこうした「?」が続々と物語をつくってゆく気がします。
デルボーの話にしても、何故王室に椅子を?何故突然死んだの?何故剥製?何故若返るの?何故殺したの?とかとか、気にしだしたら「?」だらけ。
この「?」を自分で勝手につくり上げて、じぶんの面白い世界をじぶんでつくりあげる想像力、そういった楽しみがその「?」のなかにある気がします。

この鏡の国は『最後の麗しき日々』『嵐』『醜い男』の三部作なのだそうですが、
ぼくも全編を知っているわけではありません。
ですから、なぜ「鏡の国」なの?といまだわかりません。ですが、
こうした生と死による無時間の構築は、そのまま鏡の中の世界なような気もします。
元来、詩人や夢想家は鏡の中に夢を見るものです。
それはただただ世界をうつすものではなくて、その小さな窓の中にまったく同じだが反転された別世界をはらむといった夢があります。
その世界はあまりに完璧な複写ゆえに、時間や空間も無為に感じられてきます。音すらもありえないような凪の世界。
どこまでも静かな別世界への窓口とみえるわけです。
コクトーの「詩人の血」という映画でも、ジャンマレー演じる青年が鏡の世界に飛び込んでゆきます。

鏡による完全な複写は、その世界に無為をみることによって男のユートピアを構築するとこができるかのようです。

だから女は死に、男の哀しみによって復活させられるも、それは人形としても無時間の美としてであるが、それは老いてゆく自分の孤独と不幸を助長させるための道具にすぎず、やがて男の手によって、創作された美すら破壊されてしまうという、なんとも円環的な物語なのかもしれません。
でもぼくはその男のユートピアや夢想のなかに可愛らしさと美しさをみてしまった気がします。男には、そうゆう愛し方もあるのだと、わかってあげたくもなるのです。

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