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肯定のこと

Feb 6

2012

肯定の真理をつきつめてゆくと、やがては否定にブチ当たる。
なにもかもを肯定してゆけば、その行為はやがて否定へとつながってゆく。
風が吹けば桶屋が儲かるというように、流れ流れてゆくゆくはそうなるものだ。

「O嬢の物語」の解説として、フランスの批評家ジャン・ポーランがこんな話を載せている。

1838年、奴隷解放の条例によって晴れて自由の身になった黒人が、主人の家に押しよせて、自分たちを再びもとの奴隷の身分に戻してくれという陳述書を読み上げた。しかし主人が、その陳述を拒んだところ、奴隷たちによって家族もろとも虐殺されてしまったというのである。
元奴隷たちはその晩から、ふたたび自分たちの奴隷小屋にもどって、いままで通り会合や労働や、儀式をはじめたそうなのである。


そもそも黒人たちが奴隷解放によって自由を感じたかどうか、あやしいものである。
非人道的なんていう価値観は黒人のなかには生まれえないものだとおもう。
永年の奴隷暮らしというものは、そのような考えを生まない生まれないものだとおもう。
もちろん奴隷暮らしというものがどういったものか、家庭によっても、労働現場によっても違っただろうし、その暮らしに疑いを持たなかったものも少なくないだろう。
苦しみや憎しみを感じたとしても、黒人は身体的表現が多彩だったというし、儀式や会合でまにあっていただろう。
だからそういう暮らしでまにあっていたと思っていたひともいたでしょうよ、といいたい。


おもいきって差別関係の話に触れると、

資源として木材や家畜のように人間をあつかっていただけのこと。
そこに非人道的だなどの負い目というか劣等感というか虚栄心というか、正義面した同情というかを加えたのもまた白人で、解放運動などというのも白人の入れ知恵から始まったこと。

だから私見としては、健全な奴隷の雇い方を確立しておけばよかったのだ。
それをやれ暴力的な支配だとかと銘打たれてしまったから、悪辣なイメージがついてしまっただけのこと。奴隷という立場で満足していた者も多い。

かといってクークラックスクランに賛同しているわけでもありませんので。三角帽の白頭巾に白装束のアンチ黒人オカルト集団は、絵づらはいいですが、過激すぎて御遠慮します。

そもそも黒人が大声上げて「それは差別よ!」とかいうアメリカ映画お馴染みの光景は胸焼けがするし、同じく日本の女性解放運動で「性差別!」と叫ぶがさつな女性も胸焼けがする。おかげさまで日本の奥ゆかしい女性は死滅してしまいました。
ぼくは「差別じゃなくて区別です!」と冗談まじりにいう小学生たちに賛同する。
自分たちの特権にもっと目をむけるべきだ。
ジプシーたちが健気にジプシー音楽というものを確立したように、それぞれの持ち味というものがある。
その活動の場を広げるために、そういった運動が広まったというのもわかりますが、便乗した人々というのにいつの時代でも胸焼けを起こす。
たとえば「学生運動」の悪乗りしかり、いまの「反原発運動」の聖戦ぶった顔。
ついに精神まで白人にのっとられてしまったかと哀しくなる。


たとえ話で「奴隷」を持ち込んだので前置きが長くなってしまった。

それまで「奴隷」として従属したいたものが、
従属をとかれてパニックになって、主人を殺してしまった。

奴隷は命令をくれと願ったのに、主人が命令を下すことをやめてしまったので、
永年奴隷の身体にしみついた生活とか習慣とか人間的だったものがすべて崩壊してしまった。価値観が崩壊して、今後どうして生きていったらいいのか見失い、自殺を考えるほどの空虚だったに違いない。
勤続30年でリストラされるようなもの。
連帯保証人になったばかりに巨額の借金を背負ってしまったようなもの。
その空虚を満たすため、逃れるために、主人を殺して現実を否定して、今度は夢のなかへ戻っていった。
それまでの現実はもう夢でしかなくなったので、かれらは夢の中へのがれるために目の前の障害を消しただけのこと。
というのは主人に仕えていたのではなく、奴隷生活に従属していたということ。
主人などははじめからいなくてもよかった。命令を出す機械さえいれば、また主人の代理さえいれば、かれらは満足できたのかもしれない。

「奴婢訓」という話があるが、奴婢たちは主人を殺して、日替わりで自分たちが主人になり、命令を出したりしながら奴隷生活をつづけるのである。なんだか似ている。


ここで、このはなしを違った切り口からみてみる。

奴隷という主人の命令を肯定する身分のものが、主人を殺すという否定の行為をおこしてしまった。
この「肯定」というのは、主人を「肯定」していたのではなく、奴隷という現在を「肯定」であった。
奴隷という今の生活に不可欠なものがこの「肯定」というものだったのだ。
不平や不満も、この現在の「肯定」によって受け入れられていた。
ではまったく自分という存在を無視していたのかといえばそうではない。
最終的に主人をころすという行為を起こしているわけだから、自分の存在というものはつよく意識されている。
つまり「肯定」することによって無私にちかづくのではなく、むしろ状況の「肯定」によって現在の自分を果てしなく意識していくことになる。
肯定というこういによって、主人を軽蔑することだって可能なのだ。

まるで自分を俯瞰からみているように、痛みだけはじぶんを通過してゆき、状況だけを楽しめるように。

たとえば、肯定する人間がいたとして、告白されたとする
「好きです。」
「はい。」
「わたしのことを好きといって。」
「好きです。」
「付き合ってください。」
「はい。」
「愛してる。」
「はい。」
「結婚しましょう。」
「はい。」
この肯定する人間の個性の強さと、状況を肯定するあまりに、告白者を否定している光景がおわかりいただけるだろうか。このとき肯定者はおそろしく楽しんでおられるとおもう。
というのは、肯定者はきっと、この告白者を軽蔑してい

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