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酸素のこと

Oct 29

2012

二週間ほどパソコンをひらくこともなく、読書に映画に耽溺していました。
疲れていたということもありますが、
僕自身の内部と向き合う時間がたいへんに必要であったからです。
いちど心の精神の水面を「凪」の状態へもってゆくことが急務におもわれ、
平穏をとりもどすために、外部との接続や接触を減らしていました。
水面は荒れていたのでも、濁っていたのでもなく、
打ち寄せる浜辺に漂着物がいくつもあって整理がつかなかったというのが近いです。

いま、ようやくいつもの浜辺をとりもどし、沖合には少しの凪が訪れたようにおもいます。
これは、その最中の拾いものの話です。

僕の場合、傷心につける薬は、ほとんどが言葉なのですが、
「他人」と向き合うことを記したそれにはこのようなことが書いてありました。


「酸素」が人間にとって「毒」だということを忘れがちである、とその人はゆうのです。
酸素は、酸化によってDNAなどの生体構成分子を変性させるし(老化)、
純酸素の長時間の吸引は最悪、人を死にいたらしめる。
普段、呼吸することによって酸素と親しんでいるので、それが毒だということを意識しなくなる。かといって、酸素なしでは生きていくこともできない。

同じように、「他人」もまた「酸素」のような「毒」なのだそうだ。
世の中のあらゆる問題の大半が「他人」によるものだということはいうまでもない。
『他人は君を騙す、他人は君を裏切る、他人は君を利用する……だが、それでも君も、そして他の誰であっても、その毒なしには生きていけないのだ。』
そしてこう続く。
『しかし、君もまた、別の誰かからしたら、他人、だ……君もまた、毒なのだ。そのことを理解できれば、そしてその意味を見いだせれば、君は、君の世界の支配者となるだろう。』

高慢で幼稚な文章と解釈しなければ、これは大変面白い。
(もし高慢に感じるのであればそれはあなた自身の鏡であるし、
幼稚に感じるのであれば、そこに潜むものもすぐに見つけられるはず。
嘲笑をするということは、嘲笑する教育をさせられているということに気付くこともできるはず。)
使い古された言葉ととるのは簡単だけれど、そこに別の横風をふかせてみたい。


他人なしに生きてゆくことができないのは、周知のことですが、
それでもなるべく他人から逃れたいときもあります。
それは自分が「気疲れ」したときですが、そんなときに一人になりたいとおもうのは、他人からの影響が激しいからかもしれません。より過敏になってしまうときもあります。

それを酸素的な意味で「毒」と言ってしまっても、ぼくは理解できます。
他人の影響から逃れて、自分を見つめなおすのは、毒を受けているから。。。

しかし、そんなときに、他人も自分の影響でクラクラしているなど考えることは、「いまの」ぼくには思いもよらなかったのです。

自分の現状というと、あいかわらずなんの展望も開けていません。
ツテもコネも経験ないまま、宙ぶらりんの劇団やっています。
ですから、だれからもうらやましがられたり、まして影響を与えるなんてことは皆無だと思っていて、いわば社会規範の底辺で屁をこいているのと変わりないと自負しているのです。
そんな自分が、他人の毒になろうとは考えられませんでした。

けれど、ここでお互いただの人であるという前提に立てば、
他人への毒というのは、だれにでもありうることであるということになります。
その自覚をもつことができれば、
他人への影響力と他人からの影響とを相殺したり調節したりする可能性さえあるということであるわけです。
つまり自分の心象の水面をコントロールできるようになるということです。
かいつまんでいうと、「おあいこ」だから気にするなというようなものでしょうか。

ここで横風を吹かします。「自分」が「毒」になるというくだりです。
コクトーの「恐るべき子供たち」でも語られるように、青年期の魂は「毒」を欲するものです。主人公のポールは毒をもつことによって、自堕落な生活も生きてゆけるのです。
「いつでも死ぬことができる」というのは、自分の手の中に「死」おさめることであり、「死」が思うがままであると思えることでもあります。
「拳銃をもちたいと思うように、爆弾をもちたいと思うように」毒を持つという青年期の魂。「毒」という言葉は、僕には別の意味をもって響きます。
それは死に魅了された青年のはかなさのような甘美な思いです。
「毒」ということばが「青春」の代名詞ともいえるのです。

精神的な疲労によって、青春を霞の向こうに感じてしまっていたぼくにとって、
自分自身が「毒」であるという言葉は、ぼくにはこのように受け取られたのだと思います。
それは、「毒は、持たなくても、自分自身が毒であった」という喜びと、
「毒はじぶんの青春の代名詞であるから、自分自身が毒であるということは、ぼくはまだ死んでいない(青春を持ち続けている)」という気持ちです。
ここで「青春」を連呼するとなんだか恥ずかしい気持ちになりますが、心理用語の「青春」だと思ってほしいです。「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」の用語です。
(どちらにしても、「性のめばえ」みたいで恥ずかしい…)

それによって「毒」という言葉は、この青年期を引きずったぼくの小生意気な心にふっとなじむのです。

いってしまえば、徹底的な受け手ではないということさえわかればよかったのです。
存在そのものがすでに影響であり、攻撃的である。というのを、(自分ではない)他人にいわれたことによって、確信にかわるということでしょうか。
立っている、動いている、生きている、それだけで、毒である、自分への喜び。
その自覚と認識を持てるのなら、世界がかわってみえる。

(「自分への喜び」これが重要なのだろうね。)

世の中を変えるのが「認識」か「行為」かという問いは、三島由紀夫の「金閣寺」でも取り上げられているように、青年期の大きな悩みです。

ぼくは、そこで「認識」を選ぶことの面白さを見つけることができる人間です。
ここでは、「認識」をかえることによって、ある流れを発見することができます。
そうすると、その流れを利用することができます。それはいかにも人間的に。
(もちろん、「認識」も「行為」も手を取り合えるもので、二者択一というものではありませんから、悩む必要のないのですが。)

なにも折衝するばかりが、反省するばかりが答えではないという、
そうゆう視点を持つことが、はばかられない世の中に、もっとなればいい。

『あなたには何一つ間違いがない。』ともいえるのだ。

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