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出番のないこと

Oct 30

2012

『ところで唐。出番もないのに、楽屋でじーっと縮こまって待っている出番のない役者も役者だよ。』

特権的肉体論を語る唐十郎さんに、寺山修司さんがこう言ったらしいのです。
この言葉に、おもわず胸があつくなってしまいました。

唐さんは、「出番のない役者」という表現について、「いるはずのない人物までも、じっと楽屋のすみで芝居の事を考えている。」という想像力に感心した、と書いていましたが……
さあ、どうでしょう?


たとえばそれは、すし屋のよっちゃんでも、ソープのももちゃんでもいいんじゃないでしょうか。
役者志望だけど、当てがなくてアルバイトばっかりしているユージでもいいんじゃないでしょうか。
ダンボールとブルーシートの中で、古着の山に包まっている浮浪者のヤンさんでもいいんじゃないでしょうか。

「出番のない役者」などというのは、楽屋にもいるわけないのです。
どちらかというと、それは野球のベンチです。
出番があるかわからないけれど、ベンチにいて野球に参加している選手。
いやもっというと、野球選手をゆめみて社会人をしている36歳のエイタでもいいのです。
彼は酒でも飲みながらテレビ越しに野球を観戦して、ヤジを飛ばしてたっていいのです。

まだまだ、あります。
チンピラにからんで、タコ殴りにされて、ゴミ捨て場に捨てられた元ボクサーのマサミでもいいし、
役者の夢やぶれ、両親の看病のため実家に帰る夜行バスに揺られているジョージでもいい。
週末にはアイドルのライブに通う、銀行員のヨーゼフKだっていいのです。

おそらく、だれもかれもが、出番のない役者なのです。
ある悔しさみたいなものを、ちょっとでもかみしめれば、そのときから人は役者になれるのかもしれません。
もしくは、あなたは、出番のない役を演じさせられている途中かもしれません。
「楽屋で待っている出番のない役者」の役なのかもしれない。
くるしみながら、生き抜きながら、じっと楽屋でまっている。
あの光や、視線や、歓声?
かもしれないはいくらでもあります。

いざという出番のときには、見事に自分の役割を演じきれるのかもしれない。
その演技は最高に見事で、どんなに上手くて、どんなに売れている役者にもまねできない、
そんな輝きのある、圧倒的な、役者であるかもしれない。

だれが役者になれるのか、
だれが役者になるのか、
だれが役者にならなければならないかではなく、

ただ生きているだけのそんな愛すべき哀しい役者もどこかにいて、
じっとそのときを待っているのかもしれない。

劇場の中、舞台の上だけがステージというわけでなくて、
日常のそこかしこに非日常はひそんでいて、
そして待機している役者は、
うまくいったり、うまくいかなかったり。
そんな人生劇場に控えている、出番のない役者だって、
じっと芝居のことを考えているし、人生のことを考えている立派な役者、かもしれない。

そんな人々のことを考えることだってできる。

もしくは、
なりたくてもなれなかったものの悔しさや、
底辺の思いだって、楽屋の隅にこびりついていないといえるだろうか。
去って行ったもののだれもが才能がなかったといえるだろうか。
そんな人たちがいないと、いえるだろうか。

この川の、沼の、底。この泥の中にはなんにもないとだれがいえるのだろうか?
底辺からの視線にだって、地の底にだって光は注ぐ、かもしれない。
人そのものが光なのだということも、古くからいわれていることだ。

おそらく、いろんなおもしろいものがそこかしこに転がっている。
だれもかれもに、光をむけることというのはできるし、
そもそも、生きていない人間なんていないし、生きていない生物なんていない。
そう、ぼくも「出番のない役者」である。


『人物なんて、好き勝手に生みだしてやればいいんです。』
『きみは恐ろしいことを言うね。』

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