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佐川さんのこと

Mar 18

2012

現在、IYAYOWORKの新作を執筆中。


今度は映像もたくさん使いたいなと思っていて、準備がすごく大変そうだけれど、
うまくいけばとても面白いものになりそうです。
できれば来週中には書き上げたいと思っています。


さて、話は変わって。
またちょっと妙な話題を。

「佐川君事件」というのをご存知の方も多いはず。
1981年、パリに留学した大学院生の佐川一政くんが、おなじくオランダ人の女性留学生を銃殺し、遺体と性交後、解体して人肉を食したという事件。
事件が発覚して逮捕されるも、精神鑑定の結果不起訴となり、精神病院へ入院。
84年に帰国すると、精神に異常のないことがわかり退院となり、世に出てくる。
以後はマスコミの寵児となって、小説家となり生計を立てるも、
現在ではマニアなサブカル誌に取り上げられる程となり、
闇金にも追われて困窮されている様子。(すみませんこの辺はウィキペディア調べです。)

劇作家の唐十郎が彼のことをあつかった小説「佐川君からの手紙」で芥川賞もとっている。

さて、そこでである。
今回取り上げたいのは、人食のことでもなければ、数奇な人生のことでも、何故ことにおよんだかという精神分析でもない。

彼の小説に目を向けたいのです。

あるサブカル誌に、その抜粋が載っていたのですが、
その小説が、まあ虚飾に彩られ、商業化されていたのでした。

ちょっと手元に資料がないので、ここに書くことはできませんが、
たとえばことに及ぶときの周囲の景色や心情なんてものが、
見事に整理され、創作され、情況にマッチングするように再構築されていたのでした。

興味をそそられる部分は、人肉の触感や味のことが書いてあるくだりだけで、そこだけは(ウソかもしれないけれど)真実味がありました。
その他は、事実が小説化(虚構化)しているというなんとも不可思議な有り様。

ノンフィクションの小説を読んだことがないので、もしかしたらどのノンフィクションもそうかもしれませんが、
大衆的な心理に無理矢理近づけて、「ああ、やっぱりそうだよね。」「わかる、わかる。」という感想を持たせるように作為的に描き直されているのでした。

驚きました。
おそらく現実はもっと淡泊で、味気も色気もないものだったと思われます。
それがまた裏に見え隠れするくらいの文章力の弱さなのです。

と、同時に、「生活」ということの重苦しさも感じずにはいられませんでした。

そうしたものを書かなければ、生きてゆかれなかったのでしょう。
身元も経歴もすぐばれてしまうので、雇用先がないのです。
暮らしていくためには、ただ一度犯した、世の中の興味をそそる犯罪を、そして無実として釈放されている数奇な人生を、書くしかない。
そうしてそれは広く読まれるように、また読み手が求めているようなものとして、読み手の読みたいものを、読み手の気持ちのよいように書かなければ、お金を頂けないという状況。
その苦しみもみえてくるのが、なんとも胸をしめつけられてモヤモヤする。

だだ、唯一の救いが、もともと小説家になりたいなんて思っていなかっただろうというところで、
いくらでも文体を変えられるし、金になるならなんでもやりますという心情を持っていたことでしょう。だからとてもサバサバしている印象もあります。

でも、迎合したものを書いた(書かされた)ところで、いずれは消費され見向きされなくなるし、
すでに唐十郎の筆により文学界にのこる名作ともなっているので……

さあ、どうしたものか。生きていけるのか。

その生活苦を「報い」と一言でかたずけられるほど、たった一度の殺しが、爆薬で大勢殺して勲章もらった兵士より重たいはずがない。
強いて言うならば、書かされた文体によるウソの流布、しかたのなかったこととはいえ起こり得なかった事実を、真実としてしまったところに、この人の苦しみがあってしかるべきかもしれない。

ぼくも曲がりなりにもものを書くので、許せるウソと許せないウソとの境目がある。
多くの小説家がこのウソを使い分けているし、
許せないウソばかりをつく小説家の本は、いくら売れていても苦手だ。
しかしだ、ウソの量でいえばふつうの小説家のほうがはるかに多い。


では佐川さんはどうして許されないのか。
ひろく誤解をうけているからか。
「実際にことを起こした人だから、その人が書くものは本物だ。ホントウだ。」という前提で読んだ読者が、いてしまうからだろうか。
だが、それが佐川さんに責任があるのか。
ちょっとしたジレンマがある。

生きるためにウソをついて、大ぜいを騙して金を得るか。
死んで、真実を通すか。

そんなことを、留学して、殺人して、成功して、食べるまでした人間ができるのだろうか。
いいや、そんなこと、かれにはできなかったでしょう。

ぼくがここではっきりと、声を大にして言いたいことは、
「現実というものがいつも正しいと思ったら大間違い。」

たとえば演劇でいうと、
この佐川くんに食人殺人鬼の役をやらせたら真実味がでるかというと、これはまったくもってNO。

つかこうへいの本の一説にこんな話しがあります。
つかさんが連続幼女殺しの宮崎勤の役を考えていて、バラバラ死体の入った段ボールを届けに行くその背中が見たいんだと風間杜夫にいうと、
風間杜夫はそこにあった段ボールで即興でやってみせました。
「フン、役者が宮崎なんかに負けてたまるか。」
「その通りだ!」
「フランスで人肉食ったっていう佐川一政を、今度焼き肉に誘ってガバガバくってやるぞ!」

だから演劇やるにしても、本人よりは役者の演技のほうがいいみたいなのです。
なにせ、舞台の上はウソの世界ですから、ほんものは浮いて見えるのですよ。

さらにこうした事の似た例をあげると、
パニックに陥ったときの人というのは、どうも下手くそな芝居をみているような気に
なる。
混乱したときの人、大切な人の死に直面して思わず声をあげてしまったときなどなど、
こうしたときの声や行動は、間違いなく現実なのですが、
とても芝居がかってみえます。
それも芝居としてみると、とても下手に見えるのがやっかいなところ。

それは、さらけだしているというよりは、その状況にみあう仕草や言葉を、どこかでみたとおりに「やってしまう」というものに近い。
いいや、たとえ芝居やっている人間でも、現実で、その状況におちいったら、たぶんそう見えるのだろう。

そこで、佐川さんに話を戻しますが、殺人体験食人体験を小説にしたところで、どうあっても距離があるわけです。実践経験をしたところで、それを伝えるとなるとまた別物なのです。
そこにどんな彩りを加えたところで、やっぱり職業的な小説家にはかなわず、タレント本としての価値しかなくなってしまった。売りだす側もその程度の価値を目指していた。
買う側ももちろん、タレントとしてのものしか求めていなかった。
この連鎖反応であっとゆうまに消費され、
その特異な行為は、消化されてしまったのでした。

そこには消化されるべきではなかったものや、見出すべき重要な事態があったかもしれないのに。そのサンプルになりえずに、消化されつくした。
でも、この佐川君のことを一言に「かわいそう」ともとても言えないのはなぜか。
それはかれの責任だからだ。
この世界で法律を破るということはそうゆうこと。
ある意味で弱さ(誘惑)に負けた敗残者なのだ。
たしかに彼は、快楽に従順、欲望に正直であって、それは人間の一部としてみると面白いのですが、
想像力の介入する余地がないという点で、かなしい。

「愛そのものが幻想なら、自分自身は、案外、愛の真実の姿を典型的に、もっとも過激に生きているのかもしれない。」

と佐川さんは語っていますが、この言葉にはやはり想像力の欠如と、快楽の発現が見いだせる。
はたして彼の食人が、「愛ゆえに」だったかというと非常にあやしい。
ほんとうは死姦のほうが重要で、食べたのは処理に困ったからだけかもしれない。
もしくはただの好奇心か、ただ凌したかっただけかもしれない。

とみると、この快楽(事件)のどこに面白みがあるだろうか。
思いが届かないから殺して、動かない身体に言うことを聞かせて、さらには凌して。
おんなに執着する偏執的な性欲のつまらない事件が、
世間によって、食人部分をピックアップされ、面白おかしく報道され、目を惹き、そして消費され、消化され、忘れ去られていった、ただそれだけの話なのかもしれない。

だから、ただそれだけの話には、やっぱり虚飾でもいいから飾らなければならなかった。
ウソをつかなくてはならなかった。
そこに男の、嫌悪すべき虚栄心がみえたことが、きっとひっかかっていたのだ。

何故この人は、こんな特異な行為をやったのに、こんなに文章を着飾るのか。
それは目的のすり替え、つまり、女をヤルことが目的であったのに、事件後食人のほうがとりあげられたから、食人が目的だったというふうに過去を変質させたのだ。
我慢のできない心の弱さを、まるで人を食うという哲学や美学に置き換え、自分を崇高な人間であるかのようにふるまったのだ。

そうやって、おのれの弱さと事実をかくし、
さらにはそのことだけで生きてゆくために、ウソをつかなければならなかった。
だから、それはもうおびえたように着飾っていた、


のかもしれない。

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