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話言葉・書き言葉のこと

Jan 15

2012

言葉というのは生ものだ。
間違いなく鮮度がある。

こうして文章に書きとめるにしたって、思いついた矢先に書かなければ、
あとでつぶやこうかなんてとっておくと、
あっというまに面白さが雲散霧消してしまう。

また反対にパソコンと向き合っている、今この瞬間に思いついたことを書きとめておけば、
これは文字が生き続けるというような感触がある。
真空パックというような感覚である。


先日、お正月の特番で「言文一致」について放送されていました。
日本にはむかしから「話言葉」と「書き言葉」があって、明治にはいっても、
「わたしは 筆を 持っています」という話言葉を文字で書くと
「我レ 筆ヲ 持チタリ」となっていたということでした。
しかし英語では「I have a pen .」と言葉も文章も同じだったと。

そこで言文一致運動というのがおこり、文字も喋りも一緒にしようとして生まれたのが
「吾輩は猫である」という夏目漱石の小説だったとか。
「わがはいはねこである。」書いても喋っても一緒というおどろき。
今でいう吉本ばななみたいな感じのことですかね。

それでは日本語のもつ美しさが失われると懸念して美しい書き言葉を推奨したのが森鴎外ということでしたが。

ぼくとしては小難しい文章のほうが読み応えがあるし、賢くなれた気がするので書き言葉派ですが、

いやいや、しかし現代でもこの「話言葉」と「書き言葉」の完全な一致はなされていないよう。

ぼくも今ここに書いている文章は、どうしても普段の喋りとはちがう饒舌な文章になってしますし、
ほかの誰しも、ブログやツイッター、メールでの言葉って普段のしゃべり言葉とは違うわけですから。

では頭の中でものを考えるときには、どちらの言葉を使っているでしょうか?

二カ国語以上をあやつる人は
「日本語でものを考えて英語で話します」とか
「フランス語で考えてドイツ語を書きます」とかさまざまいるようですが、

日本語も書き言葉と話言葉でバイリンガル並みの荒技をやっているとおもわれます。

ぼくは……半半かしらん。
形にならない考えの中から、話言葉として取り出したり、書き言葉として取り出したり。

誰しもそうかもしれないし、偏りがあるかもしれません。
夢にしたってカラーの人とモノクロの人とがいるわけですから。


さて、ここにきてようやく話がまとまりそうです。

つまり形にならない考えを形にするのが文字だったり言葉だったりするわけで、
形にした瞬間にすぐ固着させないと、
拡散して消えてゆくような感覚になると言いたかったのだと思います。

だと思いますというのは、すでに当初の目的が湯気のように消えていったので取り返しがつかないからです。

賢い人はこうゆうことをすべて順序立てて理路整然と語るのでしょうが、
ぼくはどうも努力の人ではないようでございます。

なんにせよ、現代ではあえて「書き言葉」を喋ってシュールさや賢さを表現しようという動きもあるので、それはそれでとても面白いことだと思われます。

ぼくも、書き言葉と話言葉とで一致するとても美しい日本語を発見しまして、
日常会話でもたまに使っている言葉をひとつ。

『ごきげんよう』

おあとがよろしいようで。

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