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審判のこと

Feb 15

2012

「魅力的だ。罪人だからだよ。君らが犯した罪のせいさ。」


映画「審判」で、主人公のヨーゼフKにむかって弁護士がいう言葉である。
カフカの未完の小説「審判」を原作に、オーソンウェルズ監督が手腕をふるっている映画。
ある朝目が覚めると、警官が部屋にいて、キミを逮捕すると告げられるところからはじまる、なんとも不可解な話である。


上の台詞は、弁護士宅に相談にいったKが、看護婦の女に色目をつかわれて、そのまま弁護士の部屋でいちゃつくのですが、後になって、看護婦は相談にきた被告人に魅力を感じて誰とでも寝てしまう痴女だと、弁護士に教えられたときの台詞です。

弁護士は、群衆のなかからでもキミ(被告人)をみつけられるかもしれない、とまでいう。

罪人につきまとう魅力というのは、
手当てした患者にほれてしまう、ナイチンゲール症候群のようなものかもしれないが、
ある種の不具にたいして、同情以上の愛情を感じてしまうようだ。

フリークスでは美女に侏儒(こびと)がかどわかされていたが、どうやら現実はよりあやしく、侏儒(こびと)に美女が惚れるというのがあるらしい。

いま読んでいる「金閣寺」でも、内飜足という足の障害をもつ男が美女にもてまくるというのだ。女は、その男ではなく、内飜足を愛するのだという。その歪な足に肌をよせ、接吻するのだという。

審判では、ヨーゼフKは出合った女とつぎつぎできてゆく。
最初は隣の部屋に住んでいる、恋人のようなナイトクラブのダンサー。この頽廃的な女と、銀行員であるKとの対比も面白いが、これはKの一方的な片思いでにおわり、女は出ていく。
二人目がさきほどの弁護士の看護婦で、
三人目は裁判所の法廷の扉を開け閉めしている女で、扉の前で洗濯していたりする。
この家庭的な艶っぽい魅力のある女もKとキスをする。

フランスの刑事、ヴィドックもそんな男であった。
若いころは犯罪者として各地の牢獄をまわっていたヴィドックであったが、どこにいっても女があらわれてヴィドックに惚れ、ヴィドックを助けてまわるのだ。

たとえ無実でも、被告人とされてしまえばそこからなにか得体のしれない臭いがたち込めるのかもしれない。
そしてそれを、ただただ同情からというにはあまりある気がする。

Kは、自分を失脚させようとしている悪意が社会(法)にあるように感んじて、法廷でも判事や聴衆、陪審員に悪
態をつき、審議を難航させる。しかして、Kの立場はどんどん悪くなり、最終的には死刑を宣告されたのか、フロッグコートに身を包んだ男二人組に両腕を押さえられると、人気のない石切り場に連れて行かれ、そこで二人組に法の手順を踏んで殺させる。

しかし最後までいったいなんの罪で、どんな罪状で、逮捕されたのか、だれもわからないのである。

『のちに死刑になるべき男は、日頃ゆく道筋や電柱や踏切にもたえず刑架の幻をえがいて、その幻に親しんでいる筈だ。』
と三島由紀夫が書いていますが、
だとすれば、女たちがその男たちのなかに見ていたものはやはり同情なのではなく、
死への魅力なのかもしれない。

暗黒の、闇の、研ぎ澄まされた無音の、その死というものの甘美な誘いを、
女は男のなかに見ていたのかもしれない。

基本的に、女は男よりも不幸と親しむ傾向があるように思う。
一見、幸福を求めているつもりでも、その実、不幸をしか愛せない女というのは確かにいる。
彼女らは、不幸をもとめる努力をおしまない。
つねにわが身を貶めて、不幸の媚薬に身をひたす。
それでも彼女らの目ははっきりの開いているのであるから、どういう関わり方をするのかは、それぞれで選ばれるべきことだと思う。
面白いことに、不幸を求める彼女らは恒久(安寧)ということを求めないので、ふた月も関わればどこかへ行ってしまう。不幸の旬というものは短いようだ。

ここでは「メメント・モリ(死を思え)」ではなく、
夏の夜、炎に魅かれその炎に飛び込んで身を焦がす姿をまのあたりにしてゲーテが思いついたという「シュテイブ・ウント・ヴェルデ(死して成れ)」のような気がします。

男は炎、女は蛾なのであります。

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