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少年のこと

Feb 3

2012

「金閣寺」の冒頭にこのような一節がありました。

『何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。』


先ほど、読書芸人というのをテレビでやっていまして、
ピースの又吉さんが太宰治は自分の代弁をしてくれているようだ、といっていましたが、
ぼくにとっては三島由紀夫がその代弁者であります。

いつまでも負け目を持ち続けて、その「負け目」があるために、いいやこの「負け目」はいずれわたしの価値になるのだと妄想して、この小さな反逆で心鎮めるといった具合。

いつだってそうなのです。立ち向かう相手を大きくしておけば、おのずと自分までも大きくみえてくるという錯覚のようなものなのです。
ですからぼくのような妄想にいきる人の仮想敵は「世界」とか「世の中」。

この「生活」も、「世間」と戦っているとおもえばなんとかやっていけるもの。
私個人の選択、ではあまりに重すぎる事態を運命のせいだといいきれば、すべてを天のせいにして気が楽になる。

ただ、大きく違うのは、ぼくはもう「少年」ではないということくらい。
少年だから許された道の迷いも、三十前となると、親が気が気ではありません。

先日みた芝居では三十六のニートがプロ野球選手になるんだと毎日自宅でトレーニングしていましたが、
この笑えない悔しさ。

それでも、「選ばれた者だ。」
このたった一言が、どれだけワタシという個人の支えになることか。

ナンバーワンにならなくてもいいと歌っていますが、
そういうのは、敗者たちの傷口につける薬ではなく、痛みを散らす麻酔薬でしかないというのは周知のこと。

それでもあまりの痛みに、麻酔でも嬉しいときはある。
そうしてちょっとでも麻酔の快楽に気を許すと、すぐにでも彼岸の仮想敵国の臣民となってしまう。
ぼくの妄想ではこうゆう構図になっている様子。
これは特撮もののドラマと同程度の世界である。

しかし仕様がない、ぼくの原体験なんてヒーローや怪獣の中にしかないのだもの。

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