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これから溺れていく前に のこと

Jun 20

2014

お芝居を作るとき、ぼくは疑問からはじまります。
これはいったいどうなっているのだろう、これはいったいなんなのだろう、
この作品はどうやってうみだされたのだろう、
この作品をつくってみたらどうなるのだろう、
そうした疑問にたいして、なにか答えを見つけて行く「道程」が
ぼくにとっての劇作
です。

次回公演「数に溺れた!!」は、「数」に迫りたいと思っています。

が、そのままだとあまりに壮大かつ専門的なので、
まずは『ゲーム』を発見する旅をしようと思っています。

ゲームというのは、もちろんテレビゲームだけのことではなく、
ゲーム全般です。
卓上のカードゲームしかり、もろもろのスポーツしかり、賭け事しかり、
それらをひっくるめての「ゲーム」です。

というのは、
「数」を考えるときに、「ゲーム」がとても実用的だとわかったからです。

そもそも、数そのものは、ただそこにあるだけのものです。
目に見ることもできないまま、無意味に転がっているだけのものです。
数は意味をもたせて、利用して、理解して、
はじめて価値の生まれるもののようです。

つまり、
意味づけ、利用、活用の集団として「ゲーム」をつかおうというわけです。

ゲームというのは、どのようなものであれ、その根本は、数の取りあいです。
よりスコア(数)の良い者が勝つ、というのが基本的なルールでしょう。

ならば逆に「ゲーム」によって「数」を暴いてみよう、というわけです。

とっつきにくい「数」を、馴染み深い「ゲーム」によって、
より身近に、手に取りやすくしようというわけです。


さて、そこでゲームについての話をしてみます。

「ゲーム」では、だれもが「プレイヤー」になります。
「ゲーム」では、だれもが「主人公」になれるというわけです。
つまり、ゲームをしているあいだ、
「わたし」は「プレイヤー」という別人格を得て、
「ゲーム」を「生きる」のではないか、ということが考えられます。

ゲームによって別の人生を生きる、というのは、
ぼくの考えではなくて、寺山修司さんの言葉です。
ぼくはこの言葉から、ゲームと人生とつなげてみようと思ったわけです。

そうすると、ぼくたちの人生と数がつながってきやしないか、
ぼくたちの実生活と、演劇世界の数を、感覚的に結び付けられないか、
そういったことを考えているわけです。

とはいえ、まだこの旅ははじまったばかりなので、
何が見えているわけでもありません。
ここまで書いておいて、なんの結論もでていないのです。

ですが、このまま終わるのもさびしいので、
今日の発見をひとつ、書いておこうと思います。
ま、これも受け売りです。

ある演出家さんのコラムを読みました。
20年ほど前、日本の田園風景を描いた素晴らしい映画を見たそうです。
野山を駆け回る少年たちがとても印象的で、
映画によって日本の原風景を追体験したと、その演出家さんは感じたそうです。
さて、
その映画が20年ぶりにDVD化され、特典映像に、当時少年を演じた子供たち、
いまではすっかり大きくなった二十代中ごろの子たちに、インタヴューするというのがあったそうです。
ですが、大きくなった子供たちは、
撮影時は幼すぎて当時のことを全く覚えていないと言ったそうです。
実際に田園を走り回った、当人たちが覚えていなくて、
映画を見た観客のほうが、その光景を鮮明に、追体験したように覚えているというのは、
なんとも記憶とは不思議だとその演出家さんは言っていたのですが……


ぼくは、これもひとつの「ゲーム」なのではないかと思うわけです。
つまり、少年たちは映画において、
誰かの「プレイヤー」になっていたのではないでしょうか?

わかりやすく言ってしまえば、
スポーツ観戦で、観客がありありと覚えている数十年前の名勝負を、
当の選手たちが覚えていないというのに似てるのではないでしょうか?
その際、観客は、選手の身体や視線をかりて、ゲームを楽しんでいたのです。

こんな話、今さらとりたてることもない、と思うかもしれません。
その通りなのでしょう。
ですが、その当然のことをひとつひとつ洗いだしていくというのも、
道程のひとつです。

たとえば、ぼくも俳優として芝居に出演したりもします。
当然、芝居には観客もいらっしゃいます。
このとき、観客が観劇して得たものと、ぼくが演じて得たものとは、
当然違うわけです。
ぼくがそのとき伝えたかった感情というのは、ぼく個人のものです。
が、観客はその全体像をみて、芝居全体を観劇するわけです。
ですから、ぼくが伝えたかったもの以外のものを、観客が感じ取ることもあります。
それはぼくには思いもよらなかったものであったり、
別視点からの発見であったりもします。

つまり、一つの芝居は、観客の数だけ多面的にみられるというわけです。
一人は喜劇を見たとおもい、一人は悲劇を見たとおもい、
一人は残酷劇を見たとおもい、一人はアングラ劇を見たとおもい、
一人は取るに足らない時間の無駄な芝居を見たとおもい、
一人は人生で最良の芝居を見たとおもう……
ということがおこるわけですね。

となると、プレイヤー当人が得たもの以外のモノが、
観客にとっての経験になっていることは間違いないわけです。

ゲームにおけるプレイヤーとは、
もしかすると「視点」のことなのかもしれないなと、
そう感じたわけです。

一つの芝居をみて、面白がるもよし、けなすもよしですが、
そのとき必ず自分とは真逆の感想を抱いている人もいる、という事実も、
目をそらすわけにはいけないな、というわけです。

なにが言いたいかというと、
たとえぼくの芝居が面白いと感じられなくても、
どこかに面白いと感じてくれる人がいるのだな、という淡い期待を膨らませているわけです。

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