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色づく世界のとなりに住む

Aug 23

2008

「はっ」とするような物事は、すぐとなりを流れているのに、なかなか気がつかないでいる。

波長が合うという言葉がわかりやすいかもしれない。ぴたりと合えば、世の中に息が吹き込まれて、あらゆるのもが色づいて見えてくる。

そこにある青や赤や黄といったものが、生きているかのように、話しかけてくる。



その流れとは、本当に、すぐとなりを流れている。



もし、その空気に触れることが出来たなら、生きていてよかったと感じるだろう。生とはそういった、こういったことのためにあるのだろうかと思えてくる。



実は至極簡単なことで、そうなれるのに、どうしてもその波長に乗ることができないでいる人が大勢いる。だから、小さなことで、悩んでしまうし、全ての苦しみを自分の中にのみ見つけようとして、もがいている。





例えば、立ち止まって深呼吸することから始めるといい。

血液の流れに耳を傾けるのもいい。

美術館へ行って、名画に直接触れると一発だろう。

音楽を聴くのもいい。コンサートホールへいって、クラシックに触れるのもいい。

美しい文体で書かれた、優れた本を読むのもいい。こういった直接的な刺激が、「通じる」チャンスを生む。



文化や芸術というのはそういったことのためにある。

苦しみを昇華し、より生きやすくなるために。身の回りにある「色」に気づくために。自然を流れる音楽を耳にするために。



だから決してとっつきにくいものではない。

そういった、ものとは、到底人智を超えたものであるから、理解することよりも、感じることのみで十分だ。わけはわからなくていい。

その世界に、感覚に浸り、全身に味をしみわたさせるようにするといい。

油揚げのようになればいい。



良い音楽や、良い絵画、良い本や、良い芝居というのは、ほおっておいても身体にしみてくる。脳みそよりも身体のほうが正直で素直なものだ。



だいだい、脳みそなんてものは信用してはいけない。おおよそ、「これがいい」などと思うものというのは大抵が自分にそう思い込ませているだけの、暗示に他ならない。例えば性欲でさえも、何をみて興奮するかは、脳に記憶しているに過ぎないらしい。おっぱい=エロと思い込んでいるだけらしい。



本当にすばらしいものは、理解よりも感覚が超越してやってくる。



身体に任せればいい。

それだけでいいのに……いまではもう、身体ですら脳みその「理解」のみで動かして、酷使しようとするからいけないのだ。



そう。自分の身体を完全に自分のもの、意識下のなんでも思いのままのものだと思い込んではいやしないか?

この身体こそ、一番自分に近い他人である。



だから、よく自傷行為をする方がいらっしゃいますけど、あれは、自分を傷つけているつもりで、身近な他人を犠牲にしているのです。

身体は、刺激を感覚に変換する装置…というといいすぎですが、ある意味では、そうかもしれません。

だから、僕らがやらなくてはならないことはその逆。



肉体を使って、感覚を刺激に変換することです。



それは、創造ということです。

人は、生まれてきたからには、こうして「色」を世の中に足していかなければならないのです。

これだけ多くの人間が「色」を世の中に足していけたなら、あっという間に、地球ごと、その流れる波長の中にすっぽりと収まれると思います。





……なんだかファンタジーのような話でしょうが、間違ってはいないと思います。



だからやっぱり、個人や個性などといって、人間を身体の内側に閉じ込めていては、いつまでたっても色は見えてこないし、この大切な肉体を奴隷かなにかのように、言う事を聞かせて、優越感に浸るようになるのです…

色は、そこかしこにあるのに。

セミの声ひとつにしたって。

顔のシワひとつにしたって。

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