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耳をすませば ゾーラギ

Nov 29

2008

生活圏を駆け抜ける戦車、見事なキャタピラで我らが田園を耕していく。

壮絶なミサイルを撃ち込まれた野菜たちは狂喜の声をあげ、微塵になった灰をばらまいていく。



ああ、この戦車は火で動いているのか、血でうごいているのか。



濃い紫の洪水の空へ向かって落ちていく。

それでも、ガタピシャガタピシャ音をたてて、どこまでもいつまでも、動くことをやめない。



音楽が、高らかにオーケストラが地の底の方から響いてくる。









書きたいことは山のようにある気がする。喉元に熱い嘔吐物が溜まっていて、浅く静かな呼吸で抑えている気がする。



僕もいくらか、探し物はしました。これでもできる限り。

それでも、どうしても頭痛がするのです。



一番遠い所にきているような。夢をみているように、全くもって、見学者です。



すうっと、一歩頭の後ろあたりに熱い喉ぼとけを感じるのです。身体と、目とが視ているものを、僕の頭の後ろにある喉ぼとけ(意識)は、もうもうと変化させていく。





その意識だけに身を投げ出すと、どんどん、事物が遠くなっていく。

触れるもの、物質、物体、目に見えるもの、目の前の景色、そういうものが、すうっと遠のいて、夢の一部に置き換えられます。輪郭があいまいになってきて、水面に揺れている朧月のようです。

その反面近くに感じられてくるものは、もちろん、自分の意識と、それからとても大切な人の半身のような感覚、親兄弟の意識、今まで知りあって来た人たちの意識が、黄色の花を咲かせます。

ともすると、目から蝶が飛び立つのかもしれません。



目から蝶。



そうなれば、僕はすごく素敵なのですが。

そうゆうことがもっとあればいい。







筋だった文章というものには飽きがあるようです。

物語を伝える以上には、それが必要ないのではとも思います。

文字の力や、言葉の力をとりわけ見捨てる、見放す、その力の及ばなさをわかっているところから始めないと、とんだ過ちを犯すのは目に見えている。



言語や文字というものは、あくまで借り物であって、それの手綱の取り方がうまいからといって、どうこうなるわけではない。

言語をコラージュして、たとえば、カタカナの「マ」と「ン」と「コ」を切り貼りして、人を喜ばせた気になっている言葉の調教師は、実際にそれで生活が送れるのだから、舌なめずりをやめない。



生活は遠いもので、僕の場合は、戦車がうごめいている。

そのどちらも行き来してくるから、非常に迷惑だ。

戦車のやり場のない血と火を、僕は指を使って、少しずつ抜かなければならない。

そうしなければ、僕はいずれその戦車と谷底へ落ちていくだろう。

当面の僕の仕事はこの、指を使うことだ。

生活のことではなく、この景色に自分を張り付けるための、安定する、固定するための術なのです。



おかげさまで、今は少しだけ、戦車の勢いがおさまりました。



でも、もうすでに掌に痺れと、何者かの怒りのような嫌悪を感じています。

それはなんだ。

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