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メロスの王

Oct 26

2007

お久し振りです。イヤヨ主宰の平木です。



ただいま台本を執筆中で、ブログの方にも手が回らずしばらくの間、更新が滞っておりました……



まだまだ書きあがっておりません。



第一回公演・第二回公演を終え、まだまだ「やりたいこと」「試したいこと」はたくさんあるのですが、どこかに『わだかまり』があるのが現状です。

その思春期のしこりの正体を掴むのもまた一興なのではないかなと思っています。



イケイケドンドンで走ってきましたが、一度ココで、再確認のような芝居をやってもいいのではないかと考えてまして。

単純に、「芝居の面白さとはなんなのか」「どんな芝居が好きなのか」を再度発見し直してみようかと。



ですから、今のところ、次回の第三回公演はちょっぴりナイーブ!になるやもしれません。







さてさて、話は変わります。

最近は坂口安吾さんの本を読んでいます。

これがまた非常に面白いです。

堕落論なんかは、当時戦後の失意した人々に向かって書かれたものですが、今の世にも充分通じるものだと思います。短いものなので、読む機会があれば是非です。



坂口安吾さんの最大の武器は、その刺々しい口調などではありません。人間への愛情がゆえの孤独です。その立場から、その土俵の際から、これでもどうかと諦めずに堪えている人間の業の姿です。あれだけの力強さをあれだけの土俵際で見せられたらば、僕のような貧弱な人間はついていきたくなります。

実際、電車にぎゅうぎゅう詰めのときに、逞しい背中なり、社会的に生きているサラリーマンなんかの肩なりに、擦り寄りたくなるくらいの弱さを持っています僕は。

人ごみを歩いているときでも、道行く人々に触ってみたい衝動に駆られます。





それくらいの弱さの話です。





坂口安吾さんの本には太宰治についてや、小林秀雄についてのコメントも多数でてきます。中には夏目漱石や谷崎潤一郎までもバッサリと斬りおとす話までありまして、小学校中学校の時分に習った方々が切り捨てられていく様は圧巻です。そしてどれも納得がいきます。

そこには、その方々への尊敬がきちんと籠められているからこそなのですが、そこを省いて読んでは何にもまりません。





そこで、太宰治について書かれたことで、彼は人間のもつ普遍的なものごとを書くことに長けていただのなんだのというのがあるのですが、それはまあ芝居で言うシェイクスピアがもつ人間の普遍性に通じるほどのものなのでしょうが……

とするとです。太宰治で一番に思い出すのは「走れメロス」です。



あれにもそういった普遍性が籠められているのではと思ったのです。

ただのメロスの美談に留まるにはいささか勿体無いのではと。



なんだかの不貞をやらかして、メロスは捕まり死刑を宣告されるのですが、妹の結婚式を祝うために一時的に解放してくれと王に頼む。そして、また祝福が終わったならば、また帰ってきてきちんと罰を受けるという。それを聞いた王は、メロスの友人を変わりに投獄し、もし時間までに帰ってこなかったらばその友人を処刑するという。

で、メロスは死にもの狂いで走りぬけ、妹の祝宴を済ませ、山賊からも逃れ、刻限ギリギリに友人のもとに帰り着き、その勇姿に心打たれた王は、二人を許すという話ですが……



僕はその当時から、この王様が非常に気になってました。

山賊を放ったのが王かどうかというのはもう関係なく。どちらにせよ、その起こりうる幾多の障害を乗り越えかえってくるという事実が、王を改心させたというのでは、あまりにファンタジーだ。



王も一人の人間であると、その人間の普遍を描くという立場から見詰めなおすと……どうも王の中にも「期待と羨望」があったかのように思われる。「殺されるために帰ってくるはずはない」と思いつつも、「殺されるために帰ってくる人間とはなんだ?」というかすかな疑問がわだかまりとしてあったはずだ。でないと、追っ手を差し向けたり、あそこまで傲慢な態度でいられるわけがない。

なんらかの根底を覆すかのような強迫観念がないと、そうはならない。強迫観念があるということは、どこかにその事態を予測しおびえているのだから。

まるで、白人が、黒人の身体能力を恐れ、迫害した構図に似ている。身体能力としては白人は黒人に及ばない。だからこそその強迫観念に対抗し、自己保全のために、弾圧したというを聞いたことがある。



すくなくとも、王にはその余地があったと思われる。



と今度は、その王の背景に、先日の亀田大興のボクシングを見る。

あれはすでに単なるボクシングの試合を飛び越え、思想の対決に還元されている……その思想の云々はまた機会があれば書くとして……





僕の推察からいうと、この状況において、観衆・市民はメロスの王であり、亀田さんはメロスであったように思う。しかもそれは刻限に間に合わなかったメロス。





と当てはめると、なんとまあ、太宰治の走れメロスは今でもいきて、いまでもどこかで走り続けているということになる。

メロスは生まれ、強迫観念を持った王によって殺される。

それでも掻い潜る軌跡の人を目にしたとき、王は、観衆は次にどうなるのか?果たして、メロスの王のように肝要に許してやることができるのか?それとも、「走れメロス」の話のように、教科書の中に美談として収納されるのか……





などとグダグダ考えていると、確かに太宰治は死にたくなったのだろうなと思う。

坂口安吾のような精神的なタフネスさはなかったようです。

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