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タンゴのこと

Nov 25

2010

 長塚圭史演出の「タンゴ」観ました。
主演の森山未来さんの熱演たるや、すさまじいエネルギーで、このひとくらいのボルテージとパワーがあれば、演劇界でも名をはせることができると痛感いたしました。
テレビだとなんだかくちゃっとしたイメージですが、
舞台だと森山未来さんは、身体の良さが前面に出てきます。
説得力のある肉体、芝居と体との一体感、肉の躍動感、それがぴたっとひとつになって、舞台上に怪異な存在感を発揮します。
舞台中継でカフカをやっているのを少し観たのですが、そのときの衝撃は、やはりかわらず。
森山さん……舞台すごくいいです。
しかし、この「タンゴ」という作品、内容がしち面倒臭い。
ドストエフスキーの俺様的自己とうかいを全部ぶちまけて、さらにそこに、男の子ならだれでも大好き「革命」を背負いこんで、家庭、ひいては社会に核をうちこむような破壊と変革を与えようとするのだけれど、どれもまぁ、文学青年のような机上の空論で、それに付き合わされる周りの人々。それぞれの立場を代表したと思しき家族(家の中)の面々。
主人公は壁にぶち当たるたびに、家族一人一人をときに論破しときに蹂躙し、変革を試みるのだが、どれも長続きしない、思いこみと偏見と、さらには逃亡とで、めちゃくちゃになってゆく。
とまあ、ある家庭内の小さな革命は、単に社会の縮図としてあり、
演劇をとおすことによって、意味合いは社会へとより拡大されていくというようなことなのだったろうとおもうのですが……
いかんせん小うるさいのだ……。
そんな青年の横暴に付き合っている時間は非常にもったいない気がしてきてしまう。
だって、そんなこと、我々は百も承知なんだもの。
別段、青年だから挫折したのでもないし、青年だから革命ののろしを上げられたわけでもないし、青年だからこそ、やりたいようにやって死ねたわけでもないとおもう。
たぶん一番嫌な感じがしたのは、その本を書いた作家の「我」がちらちらとほの見えたことではないかしらん。
海外ではどうだかしらないが、日本ではそれは美徳と相反するようだ。
しかし、膨大なセリフ量と、小難しい言葉のやり取りは、演劇を作る側からすると、相当にスリリングであろう。
挑戦もしたくなる作品でもあるとおもう。
しかしそれは、演劇的な挑戦、芸術志向の挑戦であって
観客は、目撃者としてしか必要とされていないのかもしれない。
とくに甘やかされて育ってきた日本の商業演劇界からすると、
こんなにも楽しませて(笑わせてくれない)芝居は、眠たくなるか、途中退場が当然の対応だとおもう。だって高いお金払ったんだよ?
演劇的な試みにたいして、スリリングな演劇的やりとりにたいして、こちらもビビッドに反応できたならば、こんな随所にいたるまで手の込んだ演劇は見どころだらけで、興奮さめやらぬ、一種のトランスの状態までいけたのかもしれませんが、
そこまでいくにはちょっと敷居が高い……。
やりたいことはわかる、しかしついていけない。この悲しさもどかしさ。
現代日本演劇、ひいては演劇と観客との関係についての怒りと挑戦……とかまあそんなこと考えているのかどうかわかりませんが、
長塚圭史さんは、よほど海外で、なにか味をしめたとみえます。
たしかに、いままでは制作サイドの時間をかけたコミュニケーションを、過程をみせようがなかったが、このつくりかたならば、観客も必然とその舞台の奥にある、「同じ人間が数多くの会話や衝突を重ねる中で生まれていった一つの形態」というものを感じることができるのだろう。
顧みられなかった制作サイドの逆襲の一手なのかもしれない。
と、そう考えると、こぎみよくも思われますが……
まあプロの俳優さんならば恐れることもないのだけれど、
俳優さんが芝居を食べ始めやしないかという懸念もあります。
まあ、それは杞憂だとおもので、さらりと流しておきましょう。
舞台上は始めは枠組みでかこまれていて、家は壁をもっていましたが、それは開演と同時に次第に解体、展開され、家はどんどん広がって、まずは劇場を飲み込みます。
やがてそれは、すでに書いたように、社会へと押し広がってゆき、主人公の革命は、観客の自由を得るための(過去にどの国も経験した歴史を反復するかのような)ものであるように感じ始めると、それは一気に現実味を帯び始め、青年の死とともに、我々観客自身に託されたように感じ、さらには次に現れた別の支配者によって、(敵をもつことによって)我が肉体に浸透させてしまう。
そこでタンゴ!支配者は踊り、被支配者は相手を勤めて時代はすすんでゆく。
ああ、われわれはこのまま被支配者でいるのか、革命を起こすことができるのか、それともこのまま諦めるのか……
闇。
ここで客席明りがはいり、カーテンコールなしに現実にひきもどされる。
そうすると、人々はまんまと、その託された自由と変革の意思みたいなものを持ちかえることになる。
ただただカーテンコールがないことによって、劇世界の住人は劇世界の中へ消え去り、観客は手に残ったものだけを実感として持って帰ることになる。
演劇によって、見事拡大されたものが、劇場から蜘蛛の子を散らすように社会へとばらまかれてゆく。
……とまあそんな構造も作り手の意図だったのかしらん。とはいえ、どこまでその幻想にひたっていられるか。
社会人は案外クールだったりする。劇場を出て、そとの空気を吸えばそこはすぐに現実社会だ。
その現実社会に、いかに演劇の毒をもちかえらせるか、どうやったら毒を長時間効かせることができるのか、実社会実生活に劇世界幻想幻惑の一手を杭のようにずっぽしうちこめれば、それが演劇の功績といえるのだろう。
ああ、そんなことがやりたい。そんなことをしたい。
演劇の毒薬をつくりたい。
カーテンコールがないのはすごく好きだ。好感がもてる。
カーテンコールなんてして、いままでの世界は嘘っぱちでしたなんて開き直られると、なんだかなと思う。
IYAYOの次回公演はカーテンコールをやらないようにしよう。いや、もういっそ、演劇界の主体がカーテンコールなしになればいい。とまでおもう。
演劇は歌手やアイドルとは違うので、ピーピーキャーキャー拍手するのは、その声を受け取るのは違うと思う。
この声を受け取るものは、いっていまえば、作家や演出家やスタッフであり、俳優の報酬はすでに劇の中で享受されている。「役」は、劇の中に帰ってしまったし、そのとき拍手をされている「者」は自分であって「役」ではないのだ。そこに「役」はいないのだから、拍手をうけるのもなんだか気恥ずかしいというか、悪い気がする。「役」と「私」とは、確かに身体は同じで、同じ機能と感性を使ってはいるが、別物だ。とおもう。
ううむ、お酒飲んで眠たいから支離滅裂になってきた。
とにかく、演劇は奥が深くて面白い!!!

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