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コリオレイナスに憧れて。

Jun 9

2008

世の中には、「目開き千人ばか八千人」という言葉があるらしい。

実に痛快に思う。

恐ろしいのは、誰しもが自分は「目開き側の人間だ!」と思っていることにある。かくゆう僕も。



同世代や高校を出てからの僕の身の回りの人間は特に野暮ったい人が多かった。色んな人に僕の人生観や演劇観を語ってきたが、理解をしてくれる人は極小数だった。そして理解をしてくれた極小数の人達だけが今でもかけがえのない友人として残っている。

ある人と一晩かけてそういった話しをしていたら「今にみてろ、キミのまわりからは誰ひとりいなくなるよ!」なんて激昂しながら言われたこともある。それはまぁ至極当然。僕としては人員整理もできて、以前よりも良い生活環境になった。



どうやら僕の生活には「ついていけない」以上の何か許せない事情があるようだった。

それに対しては僕は興味はないし、知ったところで僕にはどうしようもない。

さらにどうやらそういった方々からは僕は忌み嫌われてさえいる。「平木は下落した暴徒だ。いずれ消えていく。関わらない方がいい。意味もわからないから。」

といった具合のようだ。

なんとまあ可哀相な僕。

これではどちらが冷徹非情の徒のかわかったものではない!!





ある人に「もっとわかりやすいもの(芝居)やったら?もっとこう、見てる側にすごいって思わせるようなさぁ」と言われました。

つまりこうゆうことなのだろうか、「感動させてくれ」



実に怠惰な態度ではないだろうかと思う。



芸人を捕まえては「笑わせてくれ」

役者を捕まえては「感動させてくれ」

声優を捕まえては「●●の声をやってくれ」





…いつから観客というものがこうまで主導権を握ったのか?民主主義というものの落とし穴がここにある。

逆にいうと…ものが良かれあしかれ、「良く思わせる宣伝」をすれば認めてもらえるらしい。

個々人の意識や価値観なんてものは、実は一般常識や社会的思想なんかに扇動され、ある一定の幅の中に収められている。

つまりは「これはよい」と思っているのは、実はウソで「これはよいと教え込まれた知識を持っている」に過ぎないのだ。

つまり誰も本当に自分の目で善し悪しを判断していない!

それは単に個人が持っている判断基準となるものの材料が少ないから、扇動にすぐ流されるのだ。





さらにそれは「数」を伴って、無知を正当化する。

つまりバカ八千人となるのだ。



戦争で原爆という驚異的な力を目の前にし、敗戦以後に持ち込まれたアメリカ的考えは、「オレ」は世界でたった一人の自由な「ヒーロー」だというものだったように思う。民衆や観客はあたかも自分が主役であり主人であり世界を潰すような原爆的威力をもったヒーローであるかのようになった。そしてそう思わせるように仕向け、人々を社会生活に監禁した。

数を伴ったヒーローたちは、自分たはヒーローであるから、監禁などされてはいない、様々な権力をもった恐ろしい存在であるぞ、もし自分たちを軽んじようものならば、何ものよりも強大な権力を駆使してやるぞと思うようになった。

自分が原子爆弾の保持者であるようになったのだ。

裸の王様もいいとこだ。





声を高らかに僕はいいたい。



『王様は裸だ!!』





すると怒り出す。

「キミの回りには誰もいなくなるよ!」

しかし僕には数の強みなんてない。

小数で行うテロのようなものだ。



『王様は裸だ!!』



すると王様は怒りだして

「あいつは気違いの暴徒だ!関わり合いになるな!」といいだす。

閉め出そうとしたって、テロは確固たる意思をもって堅固な盾の隙を突いてくる。



『王様は裸だ!!』

テロの虚しさは、結局は数のまえに黙殺されていくことだ。しかし無駄ではないといえるのは、その行為に影響を受ける人々がいるということだ。



僕は声を高らかに叫び続ける。

そういった芝居を作っている。まだ劇場に納まっているサイズだけども、いずれはもっと…テロのような演劇をやれたらいいと思っている。





僕はもっと多くの目開きの方と出会いたい…

すくなくとも目を開きたいと努力している方々と。





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