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「悠久の」蛸となればよし

Jun 22

2009

久しぶりに、喋りながら目がうるむくらい燃えるような話をしました。



こんなに情熱を傾けて話し合える人はもう本当に少なくなってきて……

(まぁ友達が少ないというのが主なんだろうけども)貴重な時間を過ごさせていただきました。



ある友人にあってきました。

福岡にいたころからの付き合いだから、もう七年ほどになるのかな?

その人は随分名前も出てて、芝居関係の仕事をしている人なんだけれども、こうしてゆっくりあって喋ったりするのは二年振りくらいじゃないかな。

僕はその人がとても大好きなんです。

すごく変な人で、喋るだけで刺激になるし、芝居に熱い気持ちをもっていてね(それがここ数年で衰えることなくさらに増長しておりましたので、嬉しさと感激も一塩。)ひと癖あるけれども人から好かれるタイプの人です。

誰もが気にかけたくなるような人間で、そうゆうのってちょっとうらやましかったりします。

僕はそうゆう人とあうと、いつも嬉しくて楽しくて笑います。

普段からニヤニヤしているのに、輪をかけて笑います。

笑えば自然に会話も弾み、のってくる。

福岡人の特徴なのかもしれないけれど、なんでもかんでもとにかく笑って、場の雰囲気をにぎやかで居心地のいいようにしたいというのがあるのかもしれません。



専門学校や養成所にいたころは、芝居について同期の人たちと毎日のように語り合っていたのですが……今じゃそうゆうあの時のような初心の語りをする人も激減……。二十代も半ばを越そうとしているので、同世代はやはり落ち着きと、年齢相応の話し方というものを身につけていっているのでしょうが……

私としてはそうゆう流れからみごとに足を踏み外しておりまして……



今回もまた出会ってからの第一声が「変わってないね~」でした。

僕としては嬉しいかがぎり。

「いや、変わってないこともないんやろうけど、そうゆうのって変わんないよね~。」というクッションを挟んでくれたことが、さらに気持ちのいいことかしら。そうゆう歳の重ね方をお互いが違うところでやってきて、それぞれの年月を一気に認めあえるよう。



僕は、こうして日々物書きでもしながら、名も出ずに、売れない小劇団をやっていて、前回公演をお釈迦にして、存続できるのかどうかというところまで、首の皮一枚のところを綱渡りしてヘラヘラ笑っているような、しょうもなさのなか、それでも芝居芝居といいながらやってきているわけでして、

そんな僕からすると、友人はそっちの世界で働いている、バリバリのある種上の世界の人間だという意識があるわけですよ。それはやっぱり年月を重ねれば重ねるほど、深まってゆく気がするんですよね。溝というか軋轢が?それはたぶん僕のような立場からすると余計にね。



でも、その意識下にしかない隔たりをぱっと飛び越えるのは、人間の情とか、互いへの尊敬とか……もっといえば、その人が自分の道を責任もってやっているかとかとか。

僕はだって、どうしたっていつもできることからやってきているつもりなので、何にも恥いるところはなかったんですね。



そいで、あちらももちろんそうだし、元来の友人であるし、どうゆう人間で、どうゆうふうにしてきているか、向き合ってきているか、それが「変わってない」ということを会ってすぐに感じあったわけなんですよね。



……いやだからつまり、こうした関係ってのはやっぱり素晴らしいことだなと思いました。なんだか急にシャンと背筋が伸びたようなきになりましたね。晴れ渡るという感覚ではなしに、わが土壌は、荒野に育まれておりといった具合かしらん。

足元にはしっかり踏みしめる肥沃な大地があったのですね。だからいくら呼吸が苦しくなってきても、まだまだ幾分かは頑張れるんだなと思えます。



人間と人間の、出会いとともに起こる、さまざまな現象や反応。これはホントに面白い。

まだまだ死ねないなと思うばかり。



ありがとう!

“「悠久の」蛸となればよし” への1件のコメント

  1. おかん より:

    久しぶりに読むと、以前よりは少し分かりやすくなった様な。でも落ち着いて欲しいような。好きなように生きなさいと言うことは簡単だけれど苦しい物です。

Comments